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水のコラム

長崎のあの日も多くの人が水を求めた┃未来へ受け継がれる森重昭さんの記録

2026年08月04日 2026年08月05日 その他

1945年8月9日午前11時2分、長崎に投下された原子爆弾は一瞬にして街を破壊し、多くの尊い命を奪いました。
被爆直後の惨状の中で、多くの方々が切実に求めたのは、水でした。
 
原爆による被害は建物や道路だけでなく、人々の暮らしを支えていた水道施設にも及びます。
長崎市の記録によると、未完成のまま給水を開始していた浦上貯水池や浦上浄水場など、浦上水系(うらかみすいけい)の水道施設は、同年8月9日の原爆により破壊され、配水機能が停止したまま終戦を迎えました。
 
私たち水道職人は、水を守る仕事に携わる企業として、原爆によって水を届ける仕組みが失われた歴史を振り返るとともに、あるご夫婦の尊い活動を紹介したいと思います。
それは、被爆した連合軍捕虜の調査に生涯を捧げられた森重昭(もり しげあき)さんと、その遺志を受け継ぐ奥様の森佳代子(もり かよこ)さんの活動です。
 

長崎への原爆投下による水道施設への被害と復旧の歩み


原爆は建物の破壊だけでなく、生活の基盤である水道インフラにも甚大な被害をもたらしました。
 

原爆投下による水道施設への被害

長崎の水道は、もともと水源の確保に苦労してきた歴史を持っています。
そのなかで、長崎市の水道は、横浜、函館に次いで日本で3番目に創設された近代水道であり、水道専用ダムの建設は日本初とされています。
しかし、長崎は大きな河川や地下水に恵まれにくい地形で、給水制限や断水を繰り返しながら、新しい水源を探し求めてきた地域でもあったのです。
 
その長崎で、原爆は水道施設にも大きな被害を与えました。
長崎市北部の浦上地区へ給水するため整備されていた浦上貯水池・浦上浄水場は、1945年2月に未完成のまま給水を開始していましたが、同年8月9日の原爆によって浦上水系の水道施設は破壊され、配水機能は停止。
 
水道が止まるということは、生活の不便にとどまりません。
飲み水を得ること、身体を冷やすこと、傷を洗うこと、火を消すこと、衛生を保つこと。
その一つひとつが難しくなります。
 
原爆による水道施設への被害は、まさに暮らしと命を支える仕組みが失われた出来事でした。
 
参照:長崎市水道の歴史┃長崎市
 

被爆直後に求められた水の意味

被爆直後の長崎で、人々が水を求めた記録は数多く残されています。
熱線や爆風で傷ついた方、火災の中を逃げた方、家族を探して歩いた方にとって、水は命をつなぐために必要なものでした。
水を飲みたい。
傷を冷やしたい。
焼けた身体を少しでも楽にしたい。
そう願う声は、被爆の記憶の中で重い意味を持っています。
 
被爆直後には、水を飲んだ後に亡くなる人を目の当たりにしたという証言があり、当時は「水を飲ませると死ぬ」と考えられ、救護の場で水を与えられなかった方もいました。
しかし、当時の人々は熱線や火災による重度のやけど、外傷などによって深刻な脱水やショック状態にあり、水を飲んだことが死因だったと断定することはできません。
水を求めながら、口を湿らせることさえかなわなかった方がいたという事実は、水が命に深く関わる存在であることを、より痛切に伝えています。
 
「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」では、被爆体験記を収集し、館内の検索用端末などで公開しています。
水は、日常の中ではあまり意識されない存在かもしれません。
しかし、極限の状況では、水があるかどうかが命を左右します。
 
長崎で水を求めた人々の記憶は、私たちに、水が暮らしを支えるだけでなく、人の命そのものに深く関わる存在であることを伝えています。
 
参照:被爆体験者 小倉桂子氏のインタビュー┃ICRC(赤十字国際委員会)
 

長崎の水道インフラ復旧と復興への歩み

原爆によって配水機能を失った長崎の水道は、戦後の復興の中で再び人々の暮らしを支える役割を担っていきました。
長崎の水道の歴史は、給水制限や断水の苦労に追われながら、新しい水源を探し続けた歩みでもあります。
 
戦後も慢性的な水不足は続き、1965年には大村市からの導水工事が完成し、1968年には道ノ尾浄水場が完成しました。
さらにその後も拡張事業が進められ、安定した給水体制を整えるための努力が重ねられています。
 
水道は、完成して終わりの設備ではありません。
水源を守り、施設を維持し、必要に応じて修理し、次の世代へつないでいく必要があります。
長崎の水道復旧と復興の歩みは、失われた日常を取り戻すために、多くの方が水を守り続けてきた歴史でもあるのです。
 
参照:長崎水道の歴史┃長崎市
 

埋もれた被爆者の記録を未来へつなぐ活動


長崎には、原爆によって命を落とした連合軍捕虜の記録も残されています。
ご自身の被爆体験から歴史の事実を調査し、ご遺族へ伝えてきた森重昭さんの活動について紹介します。
 

過酷な被爆体験から始まった記録の調査

森重昭さんという方をご存じでしょうか。
森重昭さんは広島の被爆者であり、広島・長崎の連合軍捕虜被爆者の調査を続けてこられました。
2016年に広島平和記念公園と広島平和記念資料館を訪問した、バラク・オバマ米大統領(当時)と抱擁を交わした被爆者として、記憶している方も多いかもしれません。
 
森重昭さんが被爆した連合軍捕虜の調査を始めたきっかけは、ご自身の過酷な被爆体験にあります。
8歳のときに被爆し無数の遺体が焼かれる光景を目の当たりにした森重昭さんは、後に公式記録とご自身の記憶の差に疑問を抱いたそうです。
 
1970年代、己斐(こい)国民学校の校庭で火葬された被爆者の人数について、記録とご自身の記憶に隔たりがあることを確かめるため、会社員として働くかたわら、休日を使って調査を始めました。
その過程で、米兵捕虜が広島で被爆死していた事実を知ったのです。
 
そこから国籍や立場の違いを超えて、原爆で亡くなった一人ひとりの名前と事実を遺族へ届けるために、自費で膨大な資料を調査する活動に人生を注がれました。
国籍を問わず、同じ一人の命として事実を伝えたいという強い思いがすべての原動力でした。
 
森重昭さんの活動は、名前を調べるだけでは終わりませんでした。
広島で被爆死した米兵捕虜12人を特定し、ご遺族へ事実を伝え、「原爆死没者名簿への登載」にもつなげたのです。
 
森重昭さんは、調査活動にとどまらず、講演やトークセッションなどを通じて、ご自身の被爆体験や、連合軍捕虜の調査で明らかになった事実を語り続けました。
国籍や立場を超えて、一人ひとりの命と向き合うことの大切さを伝えるその活動は、多くの方が平和について考えるきっかけとなってきました。
現在は、奥様の森佳代子さんがその遺志を受け継ぎ、講演などを通じて森重昭さんの思いを未来へ伝え続けています。
 
森重昭さんの国境を超えた活動は高く評価され、2024年に「第36回谷本清平和賞」を受賞されています。
 

森重昭さんが最後まで追い続けた長崎の捕虜被爆者

森重昭さんの調査は広島だけで終わりませんでした。
晩年には、長崎で被爆した連合軍捕虜についても調査を続けられていました。
 
長崎では、被爆した捕虜8人のうち6人のご遺族と連絡が取れた一方、2人については、いまだご遺族が見つかっていません。
その2人が、フルーン・アーリーさん(GROEN ARIE)と、クウマンス・ウィレム・ホートリープさん(COUMANS WILLEM GODLIEB)です。
この2人は、長崎で被爆したオランダ国籍の捕虜であり、現在もご遺族との連絡が取れていません。
 
名前が記録に残っていても、その事実がご遺族へ届いていなければ、命の記録はご家族の歴史の中で途切れたままになってしまいます。
森重昭さんの調査は、過去の資料を集めるだけの活動ではありません。
その方が確かに生きていたこと、長崎で命を落としたこと、そして、その事実をご遺族へ伝えること。
一人ひとりの命に向き合い続けた姿勢は、戦争や原爆の記憶を未来へつなぐうえで、私たちが忘れてはならないものです。
 
参照:【ドキュメンタリー】命あるかぎり ー被爆者 森重昭の執念ー┃広テレ!NEWS
 

奥様に受け継がれる森重昭さんの遺志


森重昭さんは、2026年の3月にご逝去されました。
しかし、その思いは今も受け継がれています。
 
奥様の森佳代子さんは、講演を通じて森重昭さんの活動を伝え、その遺志を後世へつなぐ取り組みを続けています。
森重昭さんが亡くなる直前まで取り組んでいた、長崎で被爆したオランダ国籍の連合軍捕虜のご遺族捜索など、残された調査についても、可能な範囲で継続する意向を示されています。
 
ご遺族を探す活動は、時間が経つほど難しくなります。
資料は見つかりにくくなり、関係者の記憶をたどることも容易ではありません。
それでも、名前を残し、記録を探し、事実を伝えようとする活動には大きな意味があります。
 
フルーン・アーリーさんと、クウマンス・ウィレム・ホートリープさん。
この2人の名前を記すことは、長崎で失われた命を、数字や歴史上の出来事としてではなく、一人ひとりの存在として受け止めることにつながります。
 
参照:【講演報告】森佳代子による初講演:夫・重昭の遺志を継いで(岡山県玉野市)┃歴史家 森 重昭のホームページ
 

水を守る仕事を通して長崎で失われた日常の記憶を未来へつなぐ


水道職人は、日々の水まわりのトラブルに向き合い、安心して水が使える暮らしを支える仕事をしています。
蛇口から水が出ること、トイレやお風呂、キッチンがいつも通り使えること、それは普段、意識しにくい日常かもしれません。
しかし、長崎の原爆によって水道施設が失われ、人々が水を求めた記録に触れると、その当たり前がどれほど尊いものなのかを改めて感じます。
 
水を守る仕事は、暮らしを守る仕事です。
そして、暮らしを守ることは、命を支えることでもあります。
水道職人は地域に根差した企業として、その土地の歴史や記憶に目を向けることも、私たちにできる大切な取り組みの一つだと考えています。
 
過去を知り、記録を受け止め、次の世代へ伝えていくこと。
それは、平和を願う心を未来へつなぐことでもあります。
 
森重昭さんは、40年以上にわたり、国籍や立場を超えて、一人ひとりの命と向き合い続けました。
その思いは現在、奥様の森佳代子さんに受け継がれ、平和の大切さと、調査によって明らかになった事実を未来へ伝える活動として今も続いています。
その取り組みに心を寄せ、私たち水道職人も、水を守る仕事を通じて暮らしを支えるだけでなく、水の大切さや平和の尊さを次の世代へ伝えていきたいと考えています。
 
※本記事に掲載している森重昭さんご家族の写真および森佳代子さんの写真は、森重昭さんのご家族からご提供いただいたものです。

※本記事でご紹介している方法は、一般的な対処法の例です。
作業を行う際は、ご自身の状況や設備を確認のうえ、無理のない範囲で行ってください。
記事内容を参考に作業を行った結果生じた不具合やトラブルについては、当社では責任を負いかねます。
少しでも不安がある場合や、作業に自信がない場合は、無理をせず専門業者へ相談することをおすすめします。

監修者

監修者の写真

主任

朝長 大輔

《略歴》

弊社指定の水道メンテナンス研修プログラムを履行し、数多くの現場を経験することで実践的なスキルや最新の技術に関する知識を身に付けてまいりました。
コラムではこれまでの経験から深い理解と実践的なノウハウをもとに水道メンテナンスに関する専門的な知識を広く普及させることを目指しています。

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